前回の続き。
すべての演出作品に全力で投球しているし、すべての劇団公演に全力を投入している、なんてことは当たり前で、語るべきことでもない。また、関わったすべての公演を愛しているし、それが劇団公演ともなれば当たり前で、1本目から22本目の「星の結び目」まで、全部がかわいい我が子だ。すべての関係者には感謝してもしきれないし、受けた恩はどこかで返していくものだと思っている。
その上で。
「ローザ」という作品が自分にとってどういう位置づけか、と言う話をする。結論としてはいま私が演劇だと思っていること、を詰め込んだ作品だ。
台本を書いている、ということは、この作品を語る上で重要ではない。作品の重要な部品ではあるが、設計図である。実際に立ち上がるものは俳優である。
私が演出をするときに、その台本が要求する核を捉える。核に応じて作品の方向性が決まる。だから作品によって演劇の指向性が違うことは当たり前だ。が、作品稽古への入り方はいつも同じである。俳優同士のシンプルな関係性を芯に置く。
入口は同じでも、方向性が違うから、結果としては全然ちがう手触りになる。台本も違えば俳優も違う、作品が同じ劇団の公演でも、似ても似つかないものになるのは当たり前だ、と私は思う。それは方向が定まらないのではなく、「脚本の核を俳優同士の関係性で浮かび上がらせる」という哲学があっての当然の帰結だ。
「ローザ」という台本が要求する核は「想像力で限界を突破する」こと。それは俳優の仕事に直結する。つまり、俳優は演劇を作りながら、その演劇を破壊するという行為を要求されている。
そんなことが可能なのかどうか、私には分からない。分からないから、やってみるしかない。やってみることが、分からないまでも、突破する可能性のよすがになると考えている。
「ローザ」という作品で要求される「限界を突破する」こと。それに挑戦するという過程にある俳優。それは、時間堂と黒澤世莉の演劇の入口であり本質である「俳優同士の関係性」と「それに伴い生まれる熱量」を、今まで以上に要求している。
また、もともと分かりやすい構造ではない台本なので、「伝えやすくする努力」はしなくていい、というか、そういうことじゃない部分を掘り下げないと、面白くもなんともない作品になる。
「ローザ」は書かれている言葉を伝える作品ではなく、書かれていない存在を現前させる情熱を伝える作品だ。
「俳優の関係性」ということだけが、掘り下げていった黒澤世莉のなかにある楽しいおもちゃだ。それを、それだけをつきつめられる「ローザ」という作品を、私は愛している。一人でも多くのひとに、この作品が観てもらえますように。
千秋楽マチネ、開演まで後57分。ソワレまで5時間28分。
すべての演出作品に全力で投球しているし、すべての劇団公演に全力を投入している、なんてことは当たり前で、語るべきことでもない。また、関わったすべての公演を愛しているし、それが劇団公演ともなれば当たり前で、1本目から22本目の「星の結び目」まで、全部がかわいい我が子だ。すべての関係者には感謝してもしきれないし、受けた恩はどこかで返していくものだと思っている。
その上で。
「ローザ」という作品が自分にとってどういう位置づけか、と言う話をする。結論としてはいま私が演劇だと思っていること、を詰め込んだ作品だ。
台本を書いている、ということは、この作品を語る上で重要ではない。作品の重要な部品ではあるが、設計図である。実際に立ち上がるものは俳優である。
私が演出をするときに、その台本が要求する核を捉える。核に応じて作品の方向性が決まる。だから作品によって演劇の指向性が違うことは当たり前だ。が、作品稽古への入り方はいつも同じである。俳優同士のシンプルな関係性を芯に置く。
入口は同じでも、方向性が違うから、結果としては全然ちがう手触りになる。台本も違えば俳優も違う、作品が同じ劇団の公演でも、似ても似つかないものになるのは当たり前だ、と私は思う。それは方向が定まらないのではなく、「脚本の核を俳優同士の関係性で浮かび上がらせる」という哲学があっての当然の帰結だ。
「ローザ」という台本が要求する核は「想像力で限界を突破する」こと。それは俳優の仕事に直結する。つまり、俳優は演劇を作りながら、その演劇を破壊するという行為を要求されている。
そんなことが可能なのかどうか、私には分からない。分からないから、やってみるしかない。やってみることが、分からないまでも、突破する可能性のよすがになると考えている。
「ローザ」という作品で要求される「限界を突破する」こと。それに挑戦するという過程にある俳優。それは、時間堂と黒澤世莉の演劇の入口であり本質である「俳優同士の関係性」と「それに伴い生まれる熱量」を、今まで以上に要求している。
また、もともと分かりやすい構造ではない台本なので、「伝えやすくする努力」はしなくていい、というか、そういうことじゃない部分を掘り下げないと、面白くもなんともない作品になる。
「ローザ」は書かれている言葉を伝える作品ではなく、書かれていない存在を現前させる情熱を伝える作品だ。
「俳優の関係性」ということだけが、掘り下げていった黒澤世莉のなかにある楽しいおもちゃだ。それを、それだけをつきつめられる「ローザ」という作品を、私は愛している。一人でも多くのひとに、この作品が観てもらえますように。
千秋楽マチネ、開演まで後57分。ソワレまで5時間28分。