「演出」ってなんだろう、と考える。

いま、目の前に胎動があって、でもスポーンと生まれないのでジリジリしている。いまは熟練した産婆さんのように、用意周到に準備ししつつ産気を待つしかない、という話をこれから書きます。結論は愛です。

演劇をやっていない方のために説明しますと、「演出」というのは、映画でいう監督、オーケストラでいう指揮者、スポーツチームの監督にあたる職業です。「自分は出ないけど作戦立てたりあーだこーだ言ったりする」仕事ね。

俳優とかスタッフに、あーだこーだ言うわけです。



演劇づくりの現場に関わる人はすべて「作品への献身」のためにいて、それ以上でもそれ以下でもない。

演出家は、作品のために、あーだこーだ言う。
俳優やスタッフも、作品のために、聞いたり聞かなかったり、出来たり出来なかったりする。
で、またあーだこーだ言う。

観て話す仕事に、どれほどの意味があるのかと。
いや、そうではない。そこは疑ってない。

「演出」なんて仕事は200年前には存在してなかったわけで、いまでも歌舞伎にはないわけで、集団のリーダーや長老が、俳優と演出を兼ねているような塩梅であった。とすれば、絶対必要なものではないわけだよ。

とはいえ、それが生まれて、世界中に広がったということは、相応の理由があるはず。だし、他の分野に演出のような職種があるということは、「客観的に観て、哲学と技術を持って集団や作品をまとめる」作業には価値があるのだろう。

つまり、何を観るか、何を言うかを考えているということだ。
具体的な、変更可能なことを言う。あるいは、抽象的な、不可能なことを言う。

この問に正解はなく、また効果的か否かも対象、集団、時間と場所と、それによって変化することだろう。定量化出来ないところが面白いところでもあり歯がゆいところでもある。

そう。
技術は伝えられるし、外形を整えることは出来る。
でも、そういう次元ではない問題は解決に時間が掛かる。
そして、演劇においては、つねに時間は有限であり、初日の幕は必ず開く。

「鑑賞者が、自分でもそれが欲しいと分かっていなかったものを、提示する」のが芸術の役割の一つで、そんな困難なことが簡単にできるわけがない。頭も体も心も、自分の能力をフル活用しても追いつくかどうか。フル活用しているという過程を踏むこと、継続することが唯一それに到達する方法だろう。

私にもっと演出の技量があれば、みんなにもっと短距離で進める道を伝えて、作品に貢献できるかもしれない。けど、そんなことは言っても詮無いことだし、そんな短距離走の作品作りなんか嫌いだー、時間を掛けてじっくりつくろうぜ、と思いながら演劇をやっている。

私は私でしか無いし、また私に出来ることはやった。パズルのピースは揃っている。その確信はある。ピースが揃ってないと思い込んでいたら出来るものも出来ない。でもいまは揃っているのだ。

だから、続ける。やる。待つ。それの誕生を信じる。初日の前に来ることを。

愛だろ、愛。