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劇団員のミーティングも始まって、時間堂の明日が近づいてきています。だから、この作品について書くのはこれが最後になるでしょう。

時間堂を、最初は一人のユニットではじめて、そのあと5人のスタッフ体制にして、また一人になったのが2006年。2007年に1年間のワークショップや公演などの共同作業をするって企画を立てて活動してみて、2009年に再び菅野貴夫、鈴木浩司、雨森スウ、サキヒナタ、星野奈穂子の、5人の俳優と劇団化した。

最初一人だったのは、どんな演劇がやりたいのかはっきりしてなかったから。俳優グループにしたのは、同じ人間たちと長い時間を共有することで、より自分のやりたい演劇に近づいていけると思ったから。

シンプルなやり取りが、最も美しい演劇だ。そのシンプルさをもっともっと極めていけば、もっともっと美しい演劇になる。そのためには毎回俳優を集めるより、共有言語を摺り合わせ、技術を深めていく集団のほうが適している。かつ、集団も固定化すると視野や言葉が曇っていくので、常に新しい人を受け入れて、新しい風を通すことで、自分たちの演劇を新鮮で豊かにしていく。

でだ。
2009年からの本公演の演目を並べると「花のゆりかご、星の雨」「smallworlds'end」「月並みなはなし」「廃墟」「星の結び目」「ローザ」そして「テヘランでロリータを読む」となる。劇団員公演が「花のゆりかご、星の雨」「ローザ」の2本、客演を交えた公演が他の5本。もともと一人ユニットだったので、客演を交えることは普通の状態で、劇団員のみっていうほうが新鮮、というか新しい経験だったりする。この他に15mmでやった「池袋から日暮里まで」と、スミカとやった「のるもの案内」なんかがあって、あれはあれで楽しかったわね。

思ったより自分の台本やってるのね。7本中「花のゆりかご、星の雨」「月並みなはなし」「ローザ」の3本は黒澤世莉台本。他、オムニバス1本、三好十郎1本、吉田小夏新作1本、オノマリコ新作1本。こうやって改めて振り返ってみると、やりたい演劇は一貫しているけど、出来上った作品の質感はたしかにバラバラだねえ。

作り方はどれも一緒。基本となる演劇の良さと、エクササイズを共有する。台本を覚えて、台本の意味を離れて遊び倒す。役柄を掘り下げて戯曲読解をする。段取りを付ける。ひたすら通す。ぶっ壊す。また作りなおしてみる。
スケッチを繰り返す。
そして全員が自分の言葉ではなし、経験を共有していく。

基本の部分の共有。この濃度をいかにあげられるかが「テヘランでロリータを読む」の課題だった。「花のゆりかご、星の雨」以降、公演を重ねる中で、劇団員の中では共有されていることが、作品作りのときに共演者全体にどれだけ共有されているのか、追求しきれていなかったのではないか。個々の作品の出来は、結果として良くても、時間堂の哲学が生かしきれていたかというと、もっと貪欲になれる部分はあったんじゃないか。自分たちも見失っているかもしれない部分を徹底的に鍛え直す公演が「ローザ」だった。その課題に関しては手応えがあった。「テヘランでロリータを読む」では、その哲学を、10人の共演者全体に徹底して浸透させるという目標があった。

一定の成果は得られた。もっと出来たとも思うけど、それは振り返るから思うことで、その瞬間瞬間でのベストは尽くせたし、いままで以上に基本の部分の共有には至った手応えがある。これは劇団化して時間が経ったから可能になったことで、プロデュース形式ではなかなか至れない道のりだったと思う。劇団にして良かった。そして、今までの公演全てに関わってくれた出演者、スタッフ、お客さまのお陰でここまでたどりつけた。改めてお礼を言いたい。ありがとうございます。

基本的な哲学の共有が目的ではない。目的はあくまで作品を面白くすること。その面白さの種類が共有できた所で、品質の向上ができなければ意味が無い。その点も、一定の成果は出せたように思う。哲学を共有し、それが作品の品質を底上げした。欲を言えば、時間堂の基本を、作品の部品に盛り込んでいく時に、もっとシンプルに、もっと手放して、もっと周囲に頼って、そしてもっと台本を理解して、やっていければいいのだけど、そこは次回以降の課題かと思う。

つまり、楽器としての自分の身体を、自由に遊ばせることで得られた経験がある。その経験を、役柄という枠にはめた時に、失われる自由ではなく、制限をおもちゃにすることで奏でられる音色に焦点を当てる、という認識を身体に落としこみたい。ということだ。

演出について「テヘランでロリータを読む」の世界を、もっと遊ぶことが出来たかもしれない、という気はしている。もっと読み込めたし、もっと外せたし、もっと遊べた。お付き合いする時間が短い中で、その魅力を十全に引き出せたのか。準備を徹底したつもりはあるし、結果に満足はしているが、読解ということをもう一度鍛え直そうと思う。

ほどこされたギミック、張り巡らされた伏線、原作や「ロリータ」の本歌取り。その全てが生かしきれただろうか。

色々な台本があるけれど、甘い人生より、この理不尽で不寛容な世界に深く潜って、愚かで愛おしい人間が生きていくことを大声で肯定している、そんな台本をやっていきたいと思う。パッと見の軽重は問わず。

すべての作品作りの過程はそうだろうけど、今回もいろいろありました。実際解決していない問題も残っています。生きてものを作るって大変ね。でも、そのたびに仲間の支えが会って乗り越えることが出来ました。一人ではない、こんな簡単な言葉が、こんなに大きな力になるとは驚きです。そしてまた仲間が増え、新しい風が起きるでしょう。その風は私達をどこへ運んでくれるでしょうか。

楽しかったです。演出家として、客席でどきどきわくわくしながら、天井の知れない作品に付き合えることはなかなかない幸せでした。かかわってくれたすべてに、お礼を言います。ありがとう。

そして、自分たちの演劇を、自分たちの作品を、もっともっと日本や世界の社会へ、ぶん投げて、あいつらひっくり返してやりますよ。これは決意表明です。すごいふつうの演劇、なめんなよ。

最後に、「テヘランでロリータを読む」の台本から、カットになってしまったお気に入りの台詞をひとつ。みなさん、またお会いしましょう。そう遠くない将来に。
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この世界が音楽だとしたら、私たちの声はその音の中に入っていない
あたしはそれが嫌なんです。あたしも世界を形作りたい。たとえどんなに不協和音となっても