KATO企画「あの日、あの雨」おかげさまで無事終演いたしました。
たくさんのお運び、ありがとうございました。会えて良かったです。
関係者のみなさま、お疲れ様でした。また一緒に仕事しましょう。

「フィクションはノンフィクションに勝てるか」ということを考えています。
2部「つなみ」朗読の彼の立ち姿の素晴らしさを見たからです。その濃密な存在感と、充実した生命力は、ひとつひとつの言葉や、言葉のないただ立っている時間に満ちていました。

出演者の芝原弘さんは、東日本大震災で大きな被害のあった、石巻の出身です。彼が「つなみ」に収録されている、現地の高校生の作文を読む。
朗読は作りこまれた演劇ではないかもしれませんが、立派に演劇の一種です。だから、この時間も一緒の演劇ではあるでしょう。しかし、ノンフィクション、虚構とは言い切れない。

私は完全に虚構の物語を演劇化して、これと同じ充実を図ることが出来るのかという問に、可能だと答えます。けれど極めて困難であると思います。

忘れられない瞬間、というのが、自分の演劇作品群にはあります。たとえば「三人姉妹」でのリハーサル中、玉置玲央のソリョーヌイと原田優理子のイリーナの告白のシーン。同じく「三人姉妹」のラスト、イリーナと雨森スウのオーリガ、境宏子のマーシャのシーン。「いそうろう」上演のラスト、百花亜希と大川翔子の紙吹雪。「廃墟」の舌戦を食い入る様に見つめる観客たち。などなど。

芝原さんがただつったってる姿に、お客さまが反応する。彼の背景を知っている人なんてたいしていないんですよ。そこはコンテクストの共有があったわけじゃない。でも、伝わっているわけです、身体ひとつ立っていることで、ただことではないぞということが。ただ一人が文脈無く立っているだけで充実していて、観客がそれを敏感に受け取る、というのは、時間堂でやる黒澤世莉の演劇の目標。の尻尾を掴んだのがノンフィクションの梃子があれば、っていうのが不満でもありますし、そりゃそうかとも思います。

当然、芝原さんにいいもん見せてもらったわけですが、それを支えた石井舞さん、加藤素子さん、横山大地さんの存在も不可欠だったわけです。その関係性があって、ああいう射出が起きるわけですから。あーいいもん見たな。よかったわ。

ああいう立ち方をフィクションでもやりたいものです。

【更新】20110318 どえらい誤植を修正しました。最後がノンフィクションになってたとかありえない。意味反対じゃん。。。