ぜんぜん違う世界で生きてきたひとびとは、ぜんぜん違う考え方をするわけです。
私は足立区出身で、育ったのは品川区大田区あたりなのですが、足立区と品川区じゃひとも街もぜんぜん違うわけです。東京出身ですから東北や関西とは違うし、日本出身ですからオーストラリアやスロバキアとはぜんぜん違うわけです。

当たり前のこと書いてますね。当たり前のこと書きます。

異文化人と会ったら、そこで考え方の違いがあったら、私は私の味方なので、私が正しいと思ってしまう。
でも同じ事を相手も思うわけです。
第三者から見れば、どっちもどっちだったり、どっちだっていいわけです、だいたい。どっちかに肩入れすることもあるでしょうけど。

で、お互い主張するのは疲れるし面倒くさいわけですよ。

で、その疲れることとか面倒くさいことを、やってった方が、結局得をするわけですよ。たぶん。

自分の範囲なんてたかが知れてる、ってことは頭では分かっても身体ではなかなか分からないっていうか、わかっちゃいるけどめんどくせーです。面倒なことはやらないでしょ、嫌だもの。

成長したいとか綺麗事じゃなくて、欲得ずくです。疲れる方へ、ってか、異文化交流したほうが俺得。

んー、なんかネガティブな感じしますかね。いいよねって話です。

最近、文化違うわー考え方違うわーと思うことがいくつかあって、昔の自分よりは、なんて言ったらいいのか、頭で相手の立場をわかるとか、面倒くさくてやり過ごすとか、気を使って愛想笑いするとか、そういうのじゃないやり方っていうか態度がとれてるというか。「この人は自分と違うんだ」ということを、疲れるながら前向きに消化できるようになってきたと言うか、それが疲れるながら楽しくなってきたと言うか。相手の世界を取り込む利を身体でわかってくる時も出てきたと言うか。伝わりますかね。

そう、食事に例えたらいいのかしら。和食大好き、洋食とかインドとか死ねっていうところから、まあインドもいいよね、みたいな。いんど作れないけど、インドもいいよねみたいな話。前は好きじゃない料理をイヤイヤなのに美味しそうなフリしてたのを、いまは怪訝そうにしながら、あ、意外といけるじゃん、みたくなったよっていう。違うかなあ。そんな感じ。

戦争とかパレスチナとかチベットみたいな大きな話じゃないですよ。広げればそうなるけど、いま焦点を絞ってるのはもっと個人的なこと。

自分一人でうなってても(いやそういう時間も必要だけどもさ)、自分の世界なんか広がらんわけです。ああ、ガードが下がったってことかもしれないです。自分を守るガードが下がった。自分に自信がついたというと大げさですが、人間の根っこが多少ははれてきたのかもしれないです。自分の場合は、考え方違うひとを攻撃しちゃう場合とか、あいつは違うぜオレが正しいのだぜって思考停止しちゃう時は、自分のやってることや考えに自信が持てないからってことが多い気がします。

で、ここで書いてる内容自体が、きっとひとによっては拒否反応を示すようなことです。それが文化の違い、考え方の違いなのね。

逆説ですけど、拒否っちゃうのは疲れてる場合もあるので、まあ結局、元気に日々を過ごすのがいいよね、みたいなつまらないオチになっちゃうのか、この記事は。元気→考え方違うとき、自分とは違っても、より良い方や第三案を選べられる→得する。風桶みたいな。うーん。

あ、単純に、違うひとを「うらやましい」が屈折して嫉妬っぽくなってたのを「うらやましい」って思えるようになったのかもね。もう分かんない、何が言いたいのわたし。


全然関係ないけど、「体力は世界を救う」という詩森ろばさんのブログが面白かったと言うか、ほんと体力だよな大事なのはと思ったのでそのエントリにリンク貼っときます。
http://ameblo.jp/shimorix/entry-11052378343.html

というのをプレビューしようとしたら投稿してしまった。公開しちゃったからもう公開するです。