趣向「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」(以下Q体)、おかげさまで無事終演しました。
ご来場くださったお客さま、出演者の9人、スタッフの皆様、KAATのみなさま、そして主宰、脚本のオノマリコさん、どうもありがとうございました。

私はQ体に関われて幸せものです。

以下、演出ノートや雑感。ネタバレもあります。

●主題
主題は「光」だと思った。
光を強くするためには、闇の部分を深くしないといけないなと思った。それは脚本の改稿会議でも話したこと。
演出している過程でいろいろ具体的なことを作っているうちには忘れていたりするが、最後には主題の部分に帰っていく。

「女子学生」とか「旧体育館」のことは全然意識しないで演出した。台本に書いてあるし。それよりも、台本に隠されている、大学の四年間を通じた人間の一生、を意識した。

●スタッフワーク
照明プランも結果的には主題を意識したものっぽくなたけど、これは単純に好みの問題もある。
素舞台、白い衣装は完全に好みの問題。今回はぴったりハマるからとも思うけど、別にQ体じゃなくても同じようなプランで作品作る。

そういう意味で今回の舞台、照明、衣裳は、とても黒澤世莉らしかった。
演劇なんて結局、それだけでいいじゃん、て思ってる。そういうプランが似合う戯曲だった。

衣裳は、産着と死に装束っぽく見えたのが良かった。

●会場
実は最初、KAAT以外の候補もあって、そこでの演出プランも練っていたりした。そこになったらもっとハードな演出になったかもしれない。ああ、身体的にね。体育館や円形劇場でも上演できるようなプランも考えていて、それはいつかやってみたい。

KAAT大スタジオはいい劇場でした。人が良かった。無理なスケジュールで無茶をして、それを見守ってくれた。

音の反響が、抑えられるとありがたい。歌は美しく聞こえるのだが、台詞の発語にはそうとう負担になる。それは「浮標」を観劇したときにも思った。

●出演者
長くなるので三人だけ。
息吹役の窪田優は初舞台。初舞台の初日がダブルコールという祝福されたスタート。すくすく成長して欲しい。
敬虔役の清水久美子の職人意識には助けられた。これからもっと魅力的になると思う。
哲学役のサキヒナタは、今回ほとんど会話をしなかった。それはだいたい期待通りの、ときとして期待を越えるものを持ってきたから。言わずもがなの関係に支えられた。

●台本
面白い台本。
ここ10年観たり読んだりした中でも一番面白い。

大体の台本は「戦争と恋愛」あるいは「死と性」みたいな要項を持ているが、そういうものをほぼ持たず面白いというのはすごいことだ。言葉の平易さもいい。事柄として難解なことはほとんど出てこない。一部名詞として哲学者や文学書などが出てくるが、それらが分からなくても作品の理解に支障は全くない。言葉のリズムもいい。意味がなくても音楽になる。時間や空間を飛び越えて、パーソナルとソーシャルを行き来して、着地点がどこだか掴めないところがいい。
対立項の無いことを難じる意見も聞くが、それを必要だとは思えない。
戦争も恋愛も対立もない戯曲、いいじゃん。

オノマリコのブログから引用。一部省略。

物語ってへんだ。
そんなものがこの世のどこにあったのか。
楽に回収できるテキストなんて、どこにだって存在しない。
ここもわたしも神さまのかいた書割じゃない。
簡単に読もうとするのは、それはもう、冒涜だ。
出来事の降り積もりの中に、美しいストーリーを見出すのはいい。
それは見つけてほしい。
発見してほしい。
誰にでもわかる話ではなく、見た人それぞれがそれぞれの物語を抱えて帰るようなものを書きたい。なににも回収されない美しいものを信じてるし、そういうものが見たいってだけ。

http://namaeriko.blog14.fc2.com/blog-entry-181.html

じゃあ面白さの本質はなんだろうと考えると、これの結論は未だに出ない。直感的に面白いと感じることを、もう少し論理的に落とし込まないとなと思っている。
今その一端は、オノマリコ自身の持つ、人間全般に対する距離の遠さと、死んでしまう愚かな人間たちに対する肯定にあるんじゃないかと思っている。これをヒントに深めていきたい。


●演出つれづれ
最高の台本を手に入れたと思ったから、最高の演劇になりたいと思った。
というか、これでなれなかったら次のチャンスなんて巡ってこないと思った。
いつでも気分は最後の作品。次の作品があるなんて幻想だ。今しかない。

結果的にソリッドでストイックな演出になったけど、それは意図してやったっていうより自然とそうなったんだと思う。甘口につくったら台本をまずくしちゃう気がする。疾走感とか加速度が大事だった。

走る演出の理由は2点。学生時代でも人生でも、時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。あと、体育館の話だから。
でもそんなこと関係なくても、走るのはいいよね。

日ごろ一幕一景の作品ばかりを演出しているから、逆に転換には気を使った。転換そのものの品質はこだわったが、それを達成するためにどれだけ時間がかかるのか、という部分が読めなかった。要求することは簡単だが、俳優が達成するのに時間差があった。

そのため、シーンの完成度を上げるのが後手に回った感は否めない。しかし、Q体を立ち上げた時に美しくするためには、どうシーンを繋げていくかは、どうシーンの中身を作るかよりも、優先順位が高かった。

台本を流れに乗せて発語して、規則に従って走りこみ、駆け去っていく、それだけで十分美しい。もちろん、その先に行きたいのだけど、まずこれを徹底することが重要だった。

とくに「ライン」と呼んでいた、オープニングやエンディングを含めた、9人が一列に並んで喋るシーンは重要だった。決められたピッチ、リズム、声で話すだけで面白い。逆に言えばそれらが守られないと観ていられない。

走ること、止まること。
公演4ステージでケガ人がなくてよかった。再演の時は、フィジカルトレーナーかムーブメントコーチをお願いして、公演三ヶ月前から走りこみをして下半身を作って、公演に望んだらいい。ケガも予防できるし、もっと美しくなる。

普段から演出の現場では鬼ごっこを欠かさずやっているのだけど、それがこういう形で作品に結実するとは思ってなかった。私は単純に走っている人が好きなんだ。

似た作品を演出したかなあと思ったとき、快快 篠田千明の「いそうろう」演出したときのプランに近かった。あれも時間空間、自分と他者があいまいな作品だったなあ。だから、こういう演出作法の根っこはあったんだと思う。どストレートも今回みたいなのも、手段に過ぎない。

ただ、いまは、素舞台、台本と俳優のみ、みたいな演劇に大いに魅力を感じている。

もっともっと演劇になりたい。美しいものが観たい。演劇になりたい。

「時間が足りない」という言葉が嫌い。時間の長さはいつも決まっているし、決められた時間の中で結果を出すのが仕事だから。今回は「無理な時間管理だった」と言いたい。小劇団の予算と、初めて仕事をする人たちで、徹底した練りこみは不可能だった。荒いところを整える作業で精一杯だった。これは事実。

Q体はいい作品。毎ステージ観ていて心掴まれた。
だけど、もっともっと、すごい作品になるイメージが出来ていた。そこに至らなかったくやしさはおさまりがつかない。

ダブルコールをもらったときにはっきり分かったことは、観客がどう評価するかより、自分が納得するかのほうが大事だということ。

だから、私にとってのQ体は全然終っていない。