私は昨日も今日も、一所懸命生きている。しかし、明日のことは分からない。

34年間、ぼんやり生きていた。しばらくしたらまた、ぼんやりしてしまうと思う。自分自身というものが多少は分かってきたし、成長はするだろうけど劇的には変わらないだろう。人間というのは忘れてしまう生き物だし、忘れないと生きていけない。

****

あっているか間違っているかよりも、自分で考えているかどうかのほうが問題だと思う。

人と会ったり、Twitterやwebメディアを見てしばしば感じる違和感のひとつに、自分で考えてないような、ひいては自分の人生を生きていないような感覚、がある。人の意見に同調したり、振り回されたり、いきどおったり。激している人は共感にせよ反感にせよ、他人や他人の意見との距離感が狂ってると思う。賛成にせよ反対にせよ、情報には適度な距離感を持つのが、自分で考える、判断する、後悔しないやりかたのコツではないかしら。

正解の無い問がたくさん立っている。信頼できる情報源の方々が、原発のこと経済のことや演劇のことなどで、意見を対立させている。これはとても健康的なことだと思う。感情的にならなければ、対話こそが社会の進歩、成長に必要なこと。

3月11日以降、ある瞬間に、自分が死ぬわけないと考えていると気がついた。論理的には死ぬことは分かっている。しかし感情的、身体的に、自分が死ぬ、あるいは死ぬようなひどい目にあうわけないと思っている。

生まれた時から、次の瞬間には死ぬかもしれないのに、永遠の命があるように錯覚している。

人は必ず死ぬ。石器時代から1950年代まで、人間の生活文化の中に、死はもっと身近なものであった。敗戦のあと、経済成長にかまけて死からひたすら遠ざかり、清潔で潔癖な、繊細で傷つきやすい社会の出来上がりとなった。海の向こうに目を向ければ、戦争や内紛で死と隣り合わせの国がたくさんある。そこまでひどくはなくても、犯罪でも病でも、命の危険が身近な地域はいっぱいある。それらの人々に比べて、私たち日本人はあまりに死を恐すぎているのではないだろうか、それによって生からも遠ざかっているのではないだろうか。

死から逃げ、生から遠ざかっているがゆえに、自分の人生を生きられない、自分で考え、判断できない人が多くなっているのではないだろうか。

私は、震災の復興策が後手に回っていることも、原発の管理体制に隙があることも、強く抗議したい。それらを弁護する気持ちなど微塵もない。現場で死力を尽くしている方々には敬意を表する、私が非難するのは管理者、リーダーたちだ。

そして、それら問題のあるリーダーたちが愚かな行為をしていると仮定して、それに対する反応があまりにナイーブすぎることに違和感がある。そして、そのリーダーなり原発なりは、私たちが選んでいるという責任を感じていないように見える言動に、違和感を覚える。

いま起きている問題は、震災のあと突然降って湧いた問題ではない。以前からあった問題で、それが震災を機に表出しただけだ。比較的安全な場所にいる私たちは、それを受け止め、改善する義務があると思う、少なくとも被災者に対する想像力を働かせているような言動をする人間には、原発やリーダーを批判する人間には、その責任として行動しないといけない。

人はいずれ死んでしまうし、それから逃れるすべはない。だから私は、いつ来るか不確かな死を思うより、いまここにある生を大事にする。生を大事にするっていうのは、思い煩うことなく楽しく生きるということ。単純に心配しすぎないということ。あれもこれもと気を揉んでも、死ぬときは死んでしまうし、両手に抱えられるものしか持てないし、たって半畳寝て一畳だし。

この考え方を他人に押し付けるきはさらさらない。ただ、自分で考えてほしい。自分で調べて、自分で考えて、頭だけでなく身体も感情も使って考えて、そうして自分の人生を見つけて欲しい。時間は無限にあるわけではない、考えることも調べることもどこかで諦めて、行動しないと、自分の人生を生きないと、病気になってしまう。だからどんなに考えたり調べたりしても、全てを解決するような楽園に行けるわけではない。でも考えたり調べたりしたら、楽園に行くための地図を見て旅が出来るようになる。地図があるのとないのとでは、日々の不安がまるで違う、その地図は間違っているかもしれないけど、そうしたらまた地図を探せばいいのだ。

大事なことは、自分の地図を手に入れるために、考えて、調べること。明日死ぬかもしれないから、いい今日を生きるために。

私が考えた、「考えること」「調べること」あるいは「生き死にのはなし」でした。