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旅する演出家、黒澤世莉です。

2015年に、穂の国とよはし芸術劇場「高校生と創る演劇『赤鬼』」の演出をしました。
今年5月10日にその時のことを書く機会がありました。

面白い事に、野田秀樹さんが東京芸術劇場で上演されるそうですね。手書きのメッセージが興味深いです。

「赤鬼」は運悪くタイムリーな作品となってしまった。

と野田さんは書かれていますが、同意します。まさに、いまこそ、上演されるといいんじゃないかしらね。なんでそう思うのかということも、書いた文章に含まれています。いま公開する意味があるかなあと思ったので、PLATの許可を得て、書いた文章を転載します。ご興味あればお目通しくださいませ。

これを書いた時点では、BLMも香港も、まだ起こってなかったです。世界が変わるスピードは早いですねえ。

不確かな未来を生きる羽目になった「赤鬼」の村人たちへ

2020年5月10日は全世界的に新型コロナウィルス感染症が流行しており、日本もその例外ではない。4月7日に5月6日までの緊急事態宣言が発令され、それが5月4日に5月31日までの延長が決定されたばかりである。

未曾有の事態の中で、演劇人は窮地に立たされているが、日本全国、一部を除いたあらゆる業界が困難に直面している。報道やSNSでは、演劇を含めた芸術の窮地が喧伝され、一方で演劇人の発信に対して「演劇や芸術だけ特別扱いするな、需要のないものは滅べば良い」などの手厳しい批判の声があがってもいる。

「演劇の死」を憂う声も演劇業界からは聞こえてくるが、私が思うに、演劇は死なない。ただ演劇人の一部は活動が続けられなくなるだろう。その時点で、その一部の持っていたナレッジは失われる。演劇は死なないが、演劇人は死ぬ。ナレッジが失われてしまうダメージをいかに低く出来るか、そのための支援を感傷に流されずに考え、発信していく必要がある。当然社会とのコミュニケーションが必須だ。そして、社会とのコミュニケーションこそ、わたしたち演劇人がサボってきたことであるということが、いま浮き彫りになっていると考えている。

なぜ「赤鬼」を語るにあたって、一見関係のないことを書き連ねたのかといえば、演劇を囲む状況が当時と今とで全く変わってしまっているからだ。振り返って考えれば5年前はのどかな時代だった。演劇をやること、人が集まることに、病気のリスクも不安も葛藤も無かった。宣伝し客席を埋めることに苦労することはあっても、公演をすることが批判の対象になるようなことはなかった。それが今では、演劇の上演どころか創作もできない状況だ。

一方で、オンライン演劇やそれに類する取り組みが生まれ発信されている。それ自体は歓迎すべきことだ。仮にそれがいまはまだ不完全なものだとしても、今後新しい演劇か、演劇ではない芸術に化けるものの萌芽かもしれない。それはそれとして広まればいい。しかし、「劇場に観客が集まり、俳優たちが紡ぐ時間を想像力を持ってともに過ごす」という従来どおりの演劇が日本でいつ再開できるのか、現在は誰も分からない状況だ。

「赤鬼」という作品をつくるため、大人と高校生が集まって、演劇をつくり、上演できた。それがいまでは奇跡のように感じられる。

「赤鬼」は異邦人が村社会において差別され、排除される物語である。わたしは人間が人権という概念を理解するのが下手だととらえている。「赤鬼」の異邦人という概念を外国人だけでなく、性差、性的少数者、人種、見た目、家柄、学歴、職歴、政治的志向など、あらゆる少数派に置き換えてとらえてほしい。人権を蹂躙される人間の絶望を描いた非常に重いメッセージを与える作品であることがはっきりする。そして忘れてはいけないのは、自分たちが村社会の村人の立場にたってしまう可能性が常にあるということだ。わたしは自分の被害者性にばかり気を取られ、つい自分も加害者になりうることを忘れてしまう。

重いメッセージがある一方で、その先の希望も描かれている。いずれ人間は絶望の眠った海を越えて、様々な差異を乗り越えて手を取り合い鐘を鳴らすことが出来るのではないか。この希望は演劇らしい非現実的な絵空事に過ぎないのだろうか。自分が生きている間にはそんなことは起きないかもしれないが、絶対にないとは言えない。少なくともわたしは、100年後の人類がその可能性を信じられるようなお膳立てはしていきたいと思っている。

わたしは「赤鬼」を、6週間のリハーサルの中で、できるだけ高校生たちの主体性に委ねてつくった。「プライチ」という、PLATで行われる演劇の中で一番を目指すという目標も彼らが考えたことだ。わたしたち大人は彼らの目標を達成するために、しっかりと枠組みをつくり、土台を支える仕事をした。高校生たちはその中で表現すること、熱量、メッセージを自分たちで考え議論し、一人ひとりが選んでいった。

いままで当然続くと考えられていた未来は不確かなものとなってしまった。当たり前だと思われていた世界が当たり前ではなくなってしまった。そういう時代に、主体性を持ち、自分で目標を立て、周囲の仲間と議論し考えて作品をつくった経験は、きっと役に立つ。世界を変えるためではない。世界によって自分が変えられないために。

彼らがいまどういう人生を歩んでいるのか、どういう人間になっているのか、わたしは知らない。演劇を続けているのかいないのかも分からないし、演劇のことなんて忘れてくれて構わない。続けていてもいなくても、彼らの人生を応援したい。6週間も真剣に作品を作った仲間を、いまさらただの他人だとは思えない。

ただひとつだけ、彼らが赤鬼を迫害する立場ではなく、赤鬼の側に立つ人間になっていてくれたらいいなと思っている。

もしそうなっていたとしたら、これ以上に幸福なことはない。

黒澤世莉


ご興味がある方は、当時は毎日ブログを書いていたので、創作過程をお読みいただけます。高校生とプロのスタッフが作品作りをするっていうことがどういうことか、分かって面白いと思いますよ。